NyoNyum127号特集①:ニョニュム発行人・山崎幸恵が語る「ニョニュムの生い立ち」
NyoNyum127号特集①:ニョニュム発行人・山崎幸恵が語る「ニョニュムの生い立ち」
2023.11.28

現在、カンボジア国内で配布中のカンボジア生活情報誌NyoNyum127号の特集のWeb版です。

 

「ニョニュムが見てきたもの、ニョニュムの周りで 起きたこと~20年間の総まとめ~

2003年10月10日に生まれたニョニュム。

おかげさまで20周年となり、紙媒体での発行はいったん休刊となりました。

いろんな思い出がありますが、最終号ではニョニュムの生い立ち、そしてこの20年の間にニョニュムが見てきたこと、伝えてきたことを振り返りたいと思います。

改めて創刊号から読み返してみると、それはそれはいろんな角度からカンボジアという国を描いていたなぁと感慨深いものがありました。そして、それらのコンテンツにはそれぞれの背景があり、その発行時の世相が映し出されています。

20年ずっと愛読してくださった皆様、最近手にしたけど読んでいるよという皆様、ニョニュムがどんな 20年を歩んできたのか、20年をざーっと駆け抜けて見ることができる今回の特集、どうぞお楽しみください!

 

ニョニュム発行人・山崎幸恵が語る「ニョニュムの生い立ち」

当時は国連の存在が大きく、国連の旗が風になびくのが印象的だった

十年一昔と言いますが、ニョニュムはその2倍の歴史を作ってきました。その間、多くの方がニョニュムを手に取り、読み、そして反響を寄せてくれました。それが糧となって次は何を伝えようか、そう思い、毎号丁寧に企画を作り、取材し、編集をしてきた日々。20周年にあたり、ニョニュムがなぜ生まれたのかを振り返ってみたいと思います。

 

思い半ばのまさかの帰国、居場所を探す日々

当時は派遣前に3か月間の訓練が行われた。訓練内容は毎朝の2㎞ジョギング、そして1日5時間のクメール語研修

私がカンボジアの地に足を踏み入れたのが、1994年の7月。青年海外協力隊の日本語教師として観光省に赴任し、日本語ガイドコースを立ち上げた。だが、1年も経たないうちに腎臓に膿がたまって膨れ上がり、破裂寸前になり高熱を出し、日本で治療を受けるも協力隊員としてカンボジアに戻ることができなくなった。泣く泣く日本で派遣の仕事をしながら1年を過ごし、1996年に単身カンボジアに戻った。

1994年当時のプノンペン市内。車は少なく、シクロが人々の交通手段だった

当時、カンボジアでは現地採用の仕事がほぼなく、JICA や大使館、一部日系企業を当たってみたものの「採用枠」がないということで仕事に就けず、日本で貯めた100万円を少しずつ切り崩しながら、どうしたらよいものか…と思っていた。

まぁ、何もできないならクメール語の勉強でもしようかな、と家庭教師を探し、出会ったのがプノンペン大学で教鞭をとる先生だった。彼女から大学の話などを聞きながら、不安定ながらも復興をしようとしているカンボジアの大学生が、何を思い、どういう未来を描いているのだろ う と 考 え る 中 で、大学に行きたいと思うようになった。

ボロボロのバスがプノンペン – タクマゥ間を走っていた

 

こんな車が舗装されていない道路を土ぼこりをあげながら駆け抜けていた

 

今思えば、思いだけで動いていた若かりし頃

大学に入学できたものの、完全アウェイな日々だった

1993年の総選挙を経てラナリット第1首相(フンシンペック党)、フン・セン第2首相(人民党)という、首相が2人いる形での連立政権だったカンボジア。クメール語の先生に相談し、教育省に私費留学でプノンペン大学に入れないか問い合わせたが、「国費留学生の枠」ならあるけど、私費留学生は前例がないし、そういう制度がないと言われた。

またもや「枠」がないことでカンボジアでの居場所が得られない状態に。でも、どうしても勉強はしたいし、どうにかできないかと考えた末、先生のアドバイスもあり「首相に手紙を出してみる」ことになった。2人の首相のうち、どちらに出したらいいのだろう ? と考えた末、やっぱり第1首相なのかなと、王族用語を先生から教えてもらいながら手紙を書いた。

「私はカンボジアの文化を学びたいと思っている日本人です。日本には私費留学制度というのがあって、外国人に学びの場を提供したり、大学もそれによって収入を得たりすることができます。カンボジアにはその制度がないと聞きましたが、ぜひ制度を作ってください。制度が作られるまで私は何年でも待ちます。ぜひ、外国人である私たちに、カンボジアの文化や社会を学ぶ機会を与えてください」といった趣旨の手紙を書いて、教育省に提出した。

教育省側はびっくりしていたが、しばらくしてどうやら会議が開かれて、「学びたいという人を断る理由はない」となったらしく、特例として私の入学が認められた。

 

学生たちのため息

卒論発表会。外国人の卒論発表とあって、教室は立見のギャラリー含めてあふれかえっていた

1996年9月より晴れてプノンペン大学社会人文学部クメール文学専攻の女子大生となった私は、それから現地の大学生と同じクラスで、現地の大学生と同じ授業を受け、カンボジアの文化、歴史、社会、政治、経済などなど、あらゆることを学んだ。特にクラスメイトとの会話で、彼ら・彼女らが自分の国がどのようになっていくのかわからない中、自分の将来に不安を感じ、希望を持てずにいるのだと知った。

仲良しグループの女子学生は「文学部を卒業して高校教員になる課程を経て教員になるのが一般的だけど、教師になっても給料は数十ドル(当時は大学の教員も月給40ドル程度だった)。今この勉強をしたからといって、何の意味もないのではないかと思ってしまう」と言っていた。

クラス委員だった男子学生は「僕たちは自分の国の未来に希望が持てないし、いくら外国人がカンボジアの文明は素晴らしいと言ったところで、アンコールワットを創ったのが自分たちの祖先だということさえ信じられないし、自信がないんだよ」と言っていた。

1994年のアンコール遺跡にて

 

クメール語でものを知り、理解し始めたころ

4年間の大学生活はひたすら文字を書き、本や新聞を読む日々だった

それから、私は日々の勉強に追われながらも、着々とクメール語の力をつけていった。大学3年生のある日、突然「あ、私、クメール語がわかる」と思った日があり、これが外国語学習者が経験する一つの言語を習得した瞬間なのかなと思ったが、それ以来、どんどんどんどんいろんな言葉が自分の中に吸収され、意味が関連づけられていくのを感じた。

そんな時に、大使館から通訳の相談があり、日本からの視察の通訳をさせていただくことになった。1998年のことだった。そしてこの年、地方でゲリラ活動をしていたポル・ポト死去のニュースが飛び込んだ。興味が湧いて、現地の新聞を毎日読むようになった。新聞を持っていた私を見て、ある日系商社の駐在事務所長さんから「その新聞の内容をサマリーにして週1で送ってくれないか。日本へのレポートを書くのに、現地情報は英字新聞で得られる偏った情報しかなくて困っているんだ」と言われた。

それから毎朝新聞を買って大学へ持っていき、気になる情報をチェックして、午前の授業が終わって帰宅してから新聞記事を要訳する日々が始まった。自宅にPCとプリンター、そしてFAXを送るための電話機を取り付けて、サマリーを作って週に1回、次第に週に2回のペースで先方に送った。この時の対価は月100ドル。当時貯金の100万円を切り崩す生活をしていた私にとってはありがたい収入源だった。

 

情報発信の需要

2000年にプノンペン大学を卒業。翌年2月に卒業式が行われた

そんなこんなで、「プノンペン大学にいる日本人が、通訳とか翻訳とかできるらしい」という情報が日本人社会に広がった…かどうかはわからないけど、少しずつ通訳や翻訳の仕事が入ってくるようになった。また、この現地新聞要訳も先ほどの商社の方から紹介を受けて、商工会の皆さんに営業をさせていただき、商社、ゼネコン、日系の新聞・メディア、研究機関、大使館、JICAの方々に毎日配信をするというビジネスとなっていった。

大学3、4年は日々の勉強と新聞の要訳、時々入ってくる通訳やガイドの仕事などをしながら無事2000年にプノンペン大学を卒業した。毎日毎日新聞を読んで、辞書を引き翻訳して、時々解説などを加えながらわかりやすくまとめる。そうすることで時事知識が広がり、時事の単語がどんどんインプットされていった。それは通訳の場面でもとても有益であったし、カンボジア社会の知識がどんどん深まっていった。

次第にもう少し広くカンボジア情報を発信できないかと思い、「カフェ・クメール」という名前のブログを書くようになった。カンボジア情報というよりは私の日々の生活をつれづれ書くというものであったが、それでも読者の方もいて反響を得ることに楽しみを感じたりしていた。

 

フリーペーパーを作ってみよう!

この「ニョニュム」の女の子も、今では3歳を過ぎているはず

折しも、日本でフリーペーパーが流行り始めている時代だったこともあり、カンボジアでもそういうものがあればいいのに、という思いも相まって、自分でも作ってみてはどうかという考えに至った。

大学生の時にクラスメイトがため息交じりに言っていた「自信が持てない」という言葉。

自国の文化やアイデンティティに自信を持つ一つのツールとして、まずは自分の国のあれこれを自分たちで調べる。それを記事にして誌面にしてカンボジアの現地情報として外国人(日本人)に伝える。読者から「面白かった」とか「すごいね」とか「こうすればいいんじゃない ?」とかいろいろな反応をもらえたら、もっと伝えたい、知りたい、そして自分の国への自信になっていくのでは。

ネタはたくさんある。なぜなら「生活情報」だから。そして私が1994年以来見たこと、聞いたこと、知ったこと、新聞翻訳で得たこと、通訳で得たこと、そんなことを盛り込めば、大手メディアにはないカンボジアの生の情報を発信することができる。カンボジア人スタッフにとっても、それは難しい取材ではなく、自分たちの文化だ。スタッフを募り、コンテンツを考え、誌面構成を検討し、スケジュールを立て、営業をして、2003年10月10日を創刊日と決めた。

さて、雑誌の名前は何にしようか… ?

いろいろな候補が頭をよぎったが、ぱっとひらめいた、というか「降りてきた」のが「ニョニュム」だった。

1994年7月に初めてポーチェントン国際空港(現在のプノンペン国際空港)に降り立ったとき、飛行機でやってきた外国人を見に来ていた(としか思えない)小さな女の子が見せた「はにかみ」が私の心の中に深くあり、それを現した言葉が「ニョニュム(笑顔)」だ。

 

援助ではなく、ビジネス。それがサステナビリティ

2003年10月10日創刊号

通訳・翻訳者としての個人事業をしていたものの、雑誌を作るのであれば会社にしなければならないと思った。この国で雇用を生み、収益を上げてその中から給料を出し、納税をし、経済活動の一環として活動する。自分たちで稼いだお金を給料として分配し、きちんと納税すれば国の収入が増え、それによって教員に対する給料が支払われ、質の高い教育を受けた人材が再び自分の会社に入ってくる。

その流れを作ることが、サステナビリティではないか。そう考え、カンボジア商業省に登記申請をし、法令とかよくわからなかったので日本にも法人を作って勉強をした。簿記とか会計は日本の短大の時に商学部だったので何となく知識はある。

でも、日本でビジネスの経験がない、ましてや社会人経験のない私がカンボジアで会社を興すというのは、今考えれば無謀だったのかもしれない。だが、協力隊員としてカンボジアに来たことも病気でやめることになったことも、プノンペン大学に直談判して入学したことも、そしてこの会社を興すということも、今思えば私の人生にとっては「そうすべきことだった」と思えるのが不思議だ。

「枠がない」と言われて、大学に「枠」を作り、今度は自分の会社という「枠」を作っている自分。そんなことを考えられたのは何年も経ってからだったけど、とにかくその時私は会社を作ってこの国に根を下ろすということが自分のやるべきことだと信じていた。

2003年10月10日。カンボジア情報誌『ニョニュム』が始まった。

 

10周年記念イベントでは、大判ニョニュムで10年を振り返った

 

100号記念イベントでの表紙の作品展

 

パート②につづく

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